中学生対象の問題集を見ると、英作文はたいてい、その章の最後に来ている。
その章に至るまでの知識が本物でなければできないから、難しいという理由からそうなるのかもしれない。したがってその前の、空所補充問題だとか、下線部の語を正しい形にしなさいとか、整序問題でとかで、大いに躓いている生徒は手がでない。知識の了解が前提だから問題として役立たない。
英作という学習は、しかしとても有用な面を持っている。
私たちの語順訳のルールがあるように、英作にもまたルールに従って作り出していくという方法で行なっている。これは知識を試すものではなく、知識を獲得するために役立つのである。説明を聞いたり、文法書を読んだりして、「さあ、わかったか?」ではない。知っているわずかな手段を使い、間違えながら前に進めばいい。茨の道に傷つきながら、行きつ、戻りつすればいい。
バレーボールで繰り返しトスの上げ方を練習するのと同じで、身体の経験をすればいいのである。ここでの身体経験とは筋肉的な動きだけを指すわけではない。目で見る、耳で聞く、手を動かし声に出すといった五感の総動員である。脳はルールがわからずあたふたし、挙句は真っ白になるかもしれない。そこでルールに戻り一からやり直し冷静さを取り戻す。
英語の主語にあたるのはどの語か。主語は英文のどこに位置するか。
同じ「〜に」がきても、英語の目的語になる場合(例えば「彼に」)は丸ごと一つの英単語になるが、「机の上に」の「〜に」は英語の前置詞となり、その単語を必要とするといったことは、英文にたくさん触れた後でないとわからないことが多い。語順訳をたくさん行い、質の高い音読をし続けた後だと、感覚的に前置詞の存在が見えてくるだろう。だから英作文が仕上がった後に声に出して読んでみるというのは大切な行為である。
意味が分かった上で、英文の流れに気持ちを沿わせる行為は、英文というもののイメージを育てる働きがあると考えられるから。
そうすればやがて文型が見えてくる。
英文の語順が自然な語調を伴って思い浮かぶようになっていく。
小学6年生で英作文を始めても、それまでの経験が豊かであれば、肯定分、否定文、疑問文といった違いもスムーズに乗り越えられる。
英作文でもう一つ大事なことがある。その文がどのような場面で語られていることが考えられるか。語り手と聞き手の関係が想像できるかどうかである。
「私の父の名前はボブです」という文をまず英作する。
今度はそれを疑問文にして、その答えをYesの場合、Noの場合で作るとき、これを日本語で書けば
「私の父の名前はボブですか?」
「はい、あなたのお父さんの名前はボブです」
「いいえ、あなたのお父さんの名前はボブではありません」となる。
おそらく日本語だと自然にできてしまうと思えるものでも、英語を作る状況の中では、混乱に陥る。
英作で答えを作ろうとする生徒たちは、Yes, my father’s name・・などとなってしまう。。
どのような文にも必ず語り手がいて、その言葉の聞き手がいる。
それらのない文というのは基本的にはない。だから尋ねられた聞き手はmyをyourに変えなくてはいけない。それができないことが多い。
「AさんとBさんが向き合っていて、Aさんが『私の・・・です』と言った後、今度は『私の・・・ですか』とBさんに聞いている場面だよ。会話としては不自然だけれど、わざと聞いていると思えばいい」と説明してもなかなか「分かった」とはならない。四苦八苦する。人称代名詞の所有格ということ自体がまだストンと入っていない段階での英作なので、その馴染みのなさと、場面の想像の欠如の両方が入り乱れて、泥沼に入ってしまうことが多い。私たちが使っている英文法書には「be動詞の文」の説明の一つとして、疑問文の作り方がある。
2.疑問文の作り方:主語と動詞を入れかえる。
You are a student. ⇨ Are you a student? あなたは学生ですか。
返事のしかた:「はい」なら Yes, I am. はい私はそうです。
「いいえ」なら No, I am not. いいえ私は違います。
= No, I’m not. (I’m=I am)
という記述があって、Youで尋ねられたときに、Iで答えることが示されている。
つまり、この例文の場合のように自分が尋ねられているという場面は了解しやすいけれど、My Father’sのように3人称になると戸惑い始めるのである。
だが、いずれにしろ「分かった気がする」だけで、説明だけでわかる生徒は
わずかであるだろう。しかし、その混乱をようやく突き抜けると、何か人称代名詞だとか、文が話されている場面だとかといったことに少し意識的になるように見える。人称代名詞は表にすることができて一見やさしそうに見えるけれど、ふだんほとんど使わない私たち日本語話者には意外と了解しにくいと言える。
生徒たちにとって場面を想像するということは、この話者と聞き手という場面の想像であり、話をしているもの同士の「関係」をはっきりと認識できることを意味するけれど、主体意識がまだあまり育っていない年齢だと、この「関係」意識は曖昧模糊としている。
しかし、逆にこうした英作を通して、主体意識が育ち、成長してもいる、そう言えるだろうか。
ともかく、英作という学習は、知識の確認のためよりも、英語の構造へのイメージ作りに役立つことは確かである。傷つきながらけもの道を登るのに似て、身体感覚を通してものごとを見る視線が豊かになっていくようである。
知識の多寡が問題なのではなく、知識の獲得の過程での様々な成長こそが、知識をほんものに近づけるのだから。