歌声が聴こえる

ピアノ音楽を聴いていて、ふと思い出した。
学生時代の友人にピアノが上手な宗川君がいた。本当は作曲が好きで、芸大に進みたかったようだが、親の反対で行けず、渋々私と同じ総合大学の文学部学生となった。
専攻は二人とも哲学。同じ学年の専攻の学部生はわずか4人で、内二人はほとんど教室に顔を見せなかったので、自然と親しくなった。彼はピアノがあるところではいつも快く弾いてくれた。私自身は、中学に入った頃からクラシックが好きになり、友達からレコードを借りたり、ラジオを聴いていたりもした。学生時代、NHKの「FM放送実験局」が始まったのをきっかけに、朝から晩まで聞いていたこともあった。しかしバッハやドビッシー、それにショパンを生で聞くことになって一気にその世界は広くなった。彼はもちろん自分のために弾いてはいるのだけれど、弾きながら時々私に解説もしてくれる。そう、一緒にいるときは、私のためにも弾いてくれていたと言えるだろうか。ピアノはやっぱり基礎からやらないとね、などと言いながら、ピアノに触れさせてくれたりした。宗川君はもう15年近く前に亡くなったと、風の噂で知った。

今、私が気に入っているピアニストの音は、聴いている私に向かって語りかけてくれている、そう感じるものだ。ここはこんな風に弾くと楽しくなるよ、寂しさに満ちているような旋律だけど、ただそれを歌っているわけではなく、その寂しさに向き合っている作曲者の静かな視線があるだろう。そんなふうに語り聞かせてくれるものだ。
一緒にいた頃、宗川君が関心を示していたレコードに、サンソン・フランソワが弾くドビッシーの「映像」、があったように記憶している。ショパンの「幻想即興曲」も弾いてくれたことがあったと、少しずつ思い出すことが出てくる。
音楽の聴き方を、彼は私に伝授してくれたのかもしれない、と今になって思う。

好きなピアニストといえばグレン・グールド。そして最近たまたまSpotifyを聴いているうちにお気に入りとなった、アリス・サラ・オット。そしてここ数年はアファナシェフ。ネルソン・フレール、マレイ・ペライア・・これらの人たちの音色は、スマホで普通のイアホンで聴いても、魅力がある。

アリス・サラ・オットの弾くピアノの音に出会った時、抒情的になる一歩手前の乾いた音、そのような印象を覚えた。グリーク、ショパン、リストなどなどどれも。まだ若い女性なのに、思い入れが強くて音楽がどんどん聴くものから遠のいていく、ということがない。そしてリストの超絶技巧ではとてもダイナミックで伸び伸びと引いている。でも、なぜか正しく自然な姿勢、がイメージされる。生き方を垣間見るような瞬間がある。
調べてみると、彼女は大きな病を抱えているとのこと。そこで納得したわけではないが、生きることへの姿勢が、その病をきっかけにして変化したのではないか、とつい思ってしまう。少なくとも、何かを考えさせられて、それまでとは違った音楽の世界がひらけたのではないか。力強いけれど、気負いがない、というのが彼女の特徴かもしれない。
ややもすれば力こぶでも入りそうな場面でも、天衣が風に揺れるようにさりげなく、作為がない。好きなピアニストに共通していることといえば、みんなそれぞれの歌を歌っている、そのように聞こえてくるということかもしれない。グールドもキースも、そういえば実際に歌っている(唸っている)。歌うべき箇所で歌うと言うのではなく、もともとの歌心がそのまま現われるとでも言うべきか。どんなに個性豊かに弾いている人であっても、歌心が感じられないピアニストはいる。もちろん、ひとそれぞれに内に秘めた〈歌〉は異なるのは言うまでもない。

宗川君は繊細な人だった。いかにも芸術家風の顔付きにはどこか憂いがあったが、人付き合いはとても良い人物だった。ある時彼が食事をしようと誘ってくれた。彼のアパートで彼の手づくりの「牡蠣の土手鍋」だった。その手際は見事で、その道に進んでも、ある水準まで達するに違いないと思わせるほどだった。その夜は、二人で布団に入ってからも天井を見ながら長く話をした。その時彼は、小松左京の「果てしなき流れの果に」について熱く語り、私はその話に引き込まれ、即座に小松ファンになっていた。(彼が私の高校の大先輩に当たるのを知ったのは、ずっと後になってからだ)

宗川君は、自分の世界を見えない線で囲っているようでもあり、意識してそれを開いているように振る舞っていたとも思う。東京と大阪と、住むところが異なってしまって、いつの間にか音信不通になってしまった。50年ほど前のことである。最近Webにわずかばかり、彼の情報が載っているのを見つけた。大手楽器メーカーでは楽器の音質追求の技術的なことに携わっていたようだ。また作曲、編曲を手掛けて、楽譜の無料公開もしていたようである。あーそうなんだ。その道を君は歩んだのか、と腑に落ちる。独学者のことをとても気遣っているのは、彼の優しさではないか。孤独を知る者の優しさ、と今なら彼のことをそのように形容したいと思う。
彼が作曲したという曲を弾いている方の動画に出会い、その曲を、一部ではあったけれど聴いた。彼は〈歌〉う。久しぶりの再会を祝うように。
学生時代に漂わせていた憂いのトンネルを抜け出たように澄んだ音色だった。