「abさんご」黒田夏子著

斜め読みを許さない文体である。音読をすればすぐにわかる。読者の呼吸のリズムを拒否し、作家のゆるやかな時間に引き入れる強さがある。性急さへの戒めのように。
フィルムを巻き戻し、咲いた花を元のつぼみ、双葉の状態にまで遡るかのように、一つひとつの言葉をその初期形にまで解いてゆくといえるだろうか。

題からして、「a b」ときたら、つい「c」と言いたくなるこちらをみすかして、躓きの石のように「さんご」(coral)が置かれている。言葉を既成のものとして使わず、作者にとっての意味やイメージをその都度ていねいに紡いでいる。経糸という物語の流れに対して、緯糸という言葉をひとつひとつくぐらせながら、仕上がりの模様を想像している姿が思い浮かぶ。一般的な表現の世界なら、比喩を使うことで、ある言葉の価値を高めてゆくことになるところを、逆に言葉の素朴さ、初々しさを取り戻そうとしているようにもうかがえる。

言葉の初期形というものがあるとすれば、そこへたどり着く道はきっと、現在の混迷を見通す道にもつながっているはずである。なぜなら、それは私たちが自分ではどうにもならないと思いがちな、無意識への道にも通ずると思われるからである。かつて、メタファーは自然と人間との交感の証であった。現在、言葉は限りなく記号への高みを目指し、抽象された自然との、つまり生きているということのメタファーを探しあぐねている。

木や石に刻んだ文字が、今やPC上に幻のように存在していても、それもまた自然との交感であることは事実である。エコ活動だけが自然との関係の取り戻しになるのではない。PC上の言葉を作者のように一つひとつ解いてゆく先に、新たな手作りの織物が生まれるのかも知れない。