高校野球の地区予選が始まったことをニュースは伝えていた。夏休みのほとんどを、高校野球をのんびりとテレビ観戦することで費やすようになって何年になるだろうか。どこを応援するでもなくただ観戦する。その高校野球の応援といえば昔は3・3・7拍子の拍手だった。いまは人文字などいろいろ工夫がなされて、さぞ球場で見ればきれいだろうなと思う。
プロ野球の応援もここ数年で様変わりした球団があって、その場で身体を飛び上がらせて、リズムをとって応援している。サッカーの応援スタイルから来たのだろう。選手はどのように感じているのだろう。チーム全体を鼓舞したり、チャンスでの応援は活気づくには違いないが、集中力がかえって途切れることもあるのではないだろうか。ホーム球場では、応援で勝たせてもらった、そう答えているヒーローインタビューもよく見かけるけれど、キャッチャーがボールを取ったときの緊張感溢れる音を静かに聞きたい気もする。
さて、応援のリズムは単純で皆が合わせやすく出来ているのが普通だ。だが、精神的な応援になると、リズムはどのように表れるのだろうか。
私たちの身の回りはリズムだらけである。呼吸、鼓動、脈拍、歩く、就寝と起床、音楽、日々の習慣のアレコレ。電車の走る音、川のせせらぎ、海や湖の波音、月の満ち欠けなど、いわば生のリズム、自然のリズム、人工的リズム・・数えればきりがない。
二十年ほど前、リズムのうちある種のものには1/fのゆらぎがあって、人には心地よいものが多いということを知った。たしか武者利光さんという物理学者で、そこには高速道路を走る車の量の変化を集計してみると、その流れにもやはり1/fのゆらぎがあるといったことが、バッハの音楽にも認められるゆらぎとともに記載されていて感心したことがある。たくさんのファンが一緒になって応援し、そのリズムが合わさるわけだから、けっしてメトロノームのようにではなく、扇風機のファジーな風同様に、選手には心地よく伝わっているのかもしれない。
精神科医の中井久夫氏が患者の家に往診に行ったときのことを書いたエッセイがある。(『家族の深淵』「家族の深淵」みすず書房刊 所収)十年ほど不眠に悩まされてきた若い女性のもとへ主治医とともに往診に行く。緊張している患者が椅子に座っているそばに行くと、座り込んで脈を取り、患者の足の裏にそっと手を当て(指圧)、「そのままじっとしていようとした。なぜ足の裏かといえば、身体のもっと上部の部分にふれることには危険があり、実際、少女は必ず不快を訴えるだろうからである。足の裏には重要なセンサーが集中していて、だから人間は二足歩行ができ、さらに一本足で立つこともできる。なぜ床にすわったか。私は少女をすこし仰ぐ位置にいたかった。それは私の臨床眼であった。私は彼女に強制しているのではないことを態度で示したかった。」(略)
「じっと脈をとっていると、私の脈も次第に高まってきた。身体水準での「チューニング・イン」が起こりつつあった。この能力に私は恵まれているが、それは諸刃の剱であって、しばしば、私はこの状態からの脱出に苦労してきた。ついに彼女の脈と私の脈は同期してしまい、私の脈も一分間一二〇に達した。」この少女の脈が眼前の掛け時計の音が毎分一二〇であるのと同じだと中井氏は気づき、それをはずして隠してしまう。その後少女の脈はゆっくりとなり、中井氏の脈もまたゆっくりとなったそうである。そして少女はやがて眠りに入った。
わずかばかりの引用では詳細はお伝えできないのを承知で抜書きしてみた。思うに身体の自然な生のリズムが、外部の環境からのリズムに同期してしまったりして失われたり、他者と向き合ったときに、呼吸のリズムをはじめあらゆるリズムが乱れたり、本来の生のリズムに同期すべきものをもたない状態がつづけば、だれでも不安になったり、落ち着きを失ったりすることになるのだろう。他の生体(他者に限らず動物でも植物でも)と同期するものが一つでもある、そういう状態こそ生がこの大地に、この生活圏に根を張り、現実感を取り戻す要件なのかもしれない。ともに快と感じるゆらぎがそこにも表れているはずだ。
ところで、震災の人々のことは日々メディアによって伝えられ、その生活の遅々とした改善策に誰もがはらはらしているのではないだろうか。「がんばれ日本!」誰が言い始めたのか知らないけれど、その場に行き、被災した人たちの手をとり、励ますことも出来ない私たちの多くは、ただただ、被災した方々の壊れたリズムが(生活の、生命の、心の)、回復されますようにと、イメージとしての震災に手を差し伸べ、同期するまで、静かに応援しつづけるしかないのである。
「がんばれ」ではなく、自分を見つめることが「応援」につながるような、そんな未知の「同期の回路」を探すとも無く探しているしかない。