フリードリヒ・ニーチェ著 白取春彦編訳 ディスカヴァー刊
100万部以上売れているそうである。ずいぶん前からどこの本屋でも平積みされていて「いま一番売れている」などとキャッチコピーが書かれていた。「一番」と書かれていると、人は気になるものである。私もずっと気になりながらも、どうせ人生訓が書いてあるだけで「本来の」ニーチェとは程遠いに違いないと決めていた。それが「100万部」である。これは社会現象には違いない。読まねばなるまい。
ニーチェには思い出がある。正確にはニーチェの或る「本」には思い出があるというべきであろう。思い出というほどには読んではいないのだから。
1966年1月。大学受験を目前に控えていた頃。中央公論社から「世界の名著」なるシリーズが出ることをどこかで知り、その第1回配本がニーチェの「ツァラトゥストラ」なのですぐに買い求めた。
高2の頃から周りではサルトルやマルクスの名前が話題にのぼり、図書室にも「資本論」が置かれていたので、私もちょっと覗いてみる、くらいの関心はあった。
ケネディ大統領が暗殺され、東京オリンピックが開催される。東西冷戦の黒い雲が空を蔽いなんとなく暗い気分になったり、オリンピックをカラーテレビで見ようと友人を誘って夙川の公民館に行き、興奮して見たのを覚えている。世界の出来事がいつも身近にある感じがした。
さて。あとひと月ほどで入試という時期に手に入れたものだから、受験参考書に向かっているときは腰が据わらず、ときおりまだインクの匂いが残る500ページほどの「ニーチェ」をパラパラめくると、緊張感とある種の自由感が訪れてきたのを覚えている。勉強ではなく、ほんとうに考えることを始めるのだ、そんな気分に包まれていたので、合格発表の日がいつかも知らないでいた。
しかし、である。大学の専門課程に上がった頃京都に行き、原書まで購入したのに、ついにそれは読む前に、他の多くの本とともに古本屋へと行ってしまった。その頃のサラリーマンの初任給ほどには売れた。今では子供の小遣いにもならないだろう。大学を出る前後、専門書がまだ貴重な時代であった。
もう40を過ぎた頃からまた昔の本を買い求めることが多くなり、ニーチェも3冊ほど手元にある。ときおり気になる存在の一人。それでいて相変わらず本格的に読むには大き過ぎる。そんな風に過ごしているときに、この「超訳」を手に取ることになった。半ばはずれ、半ば正解、である。はずれとは、もちろん人生訓であったということであり、正解とはこの「超訳」の言葉使いに感心したからである。
たぶんこうしたヨーロッパの思想書のたぐいは、どうしても漢字による新しい熟語などで訳されることが多く、敷居が高く、専門家だけの世界を想像させるが、本来はその時代その社会の現実感溢れる文体も多いはずなのである。そうした意味でこの「超訳」という試みは面白く感じた。余談だが、クラシック音楽、とりわけバッハなども必ず土俗的な、民衆的な日常を含みながら生まれたものだから、現代のロックを聞くように聞いてみればいい、そう思う。
003
仕事を終えて、じっくりと反省する。一日が終わって、その一日を振り返って反省する。すると、自分や他人のアラが目について、ついにはウツになる。
自分のだめさにも怒りを感じ、あいつは憎たらしいと思ったりする。たいていは、不快で暗い結果にたどりつく。なぜかというと、冷静に反省したりしたからなどでは決してない。単に疲れているからだ。疲れきったときにする反省など、すべてウツへの落とし穴でしかない。疲れているときは反省をしたり、振り返ったり、ましてや日記など書くべきではない。
活発に活動しているとき、何かに夢中になって打ち込んでいるとき、楽しんでいるとき、反省したり、振り返って考えたりはしない。だから、自分をだめだと思ったり人に対して憎しみを覚えたりしたときは、疲れている証拠だ。そういうときはさっさと自分を休ませなければいけない。 『曙光』
現代精神科医が週刊誌かなにかに書いた助言のようだ。
ここで寄り道して、「ツァラトゥストラ」の二人の訳者の訳を、その最初、彼が山を下りる時に述べる独白のところで比べてみよう。最初は1982年白水社から出された薗田宗人訳。あとが2010年光文社刊「古典新訳文庫」の丘沢静也訳
「おん身、偉大なる天球よ!もしもおん身が、その光を注ぎ浴びせるべき者たちを持たないならば、おん身の幸福とは何であろう!
十年のあいだ、おん身はこのわたしの洞へとさし昇って来た。もしもわたしが、そしてわたしの鷲と蛇がいなかったなら、おん身はおのが光とその軌道に飽きてしまっていたであろう。(略)」「おお、大きな星よ!お前に照らされる者がいなかったら、お前は幸せだろうか!
この10年、お前はこの洞穴のところまで昇ってきた。俺や、俺の鷲や、俺の蛇がいなかったら、お前は自分の光とその軌道にうんざりしていただろう。
(略)
書かれてあることの「意味」は同じでも、言葉がもたらすイメージは28年の時代差以上に隔たっているように思える。私が最初に読んだ中央公論社のはどうだったのか覚えていないけれど、文体は硬かっただろう、それでも新訳だった。ちなみに丘沢氏は「訳者あとがき」を読むと私と同い年。そしてやはり「世界の名著」について書かれていた。それによると配本は2月とある。
同じときに同じように胸をときめかせてその本を手に入れた若者の一人は研究者となり、新訳を出された。もう一方は読者となり、これを書いている。山を下り語りはじめた「ニーチェ」のことばを、45年間それぞれの仕方でたずさえていたことになるのだろうか。
人生訓。人生の身の処し方は大切であるし、それに徹すればよいのはわかっているが、つい天邪鬼が顔を出し、処し方を左右する大本をたずねてみたくなる。黙して生きよと命ぜられながら、なお親の腰元を掴みながらイヤイヤをしてみせる子供のように、何かに対して「否!」を言いたくなる。
高校も大学も山の中腹にあり、毎日神戸の町の風景を目にし、大阪湾ののったりした海を見ていた。山にいるときは「否!」と叫び、町へと戻ると「然り!」という声が聞こえてくるのだ。
いまもまだその二つの言葉を結ぶ杣道を歩いている。熱心な読者ではないけれど、私はその二つを「ニーチェの言葉」として手に入れ、そして手放さないできたと言えるかもしれない。