He plays baseball every day.
この文をどのように訳すかは、語り手(話し手)をどのように設定するかで変わります。
- たとえば物語の作者が設定した語り手が、不特定の読者に向かってある人物(He)につ
いて語る場面を想定できます。
あるいは、② この文を読む人、話し手の「私」が聞き手の「あなた」に、両者にとって顔
馴染みのHeについて伝えているとうけとめることもできます。
①の場合は、単純に単語の意味を重ねて訳すことができます。神のような位置からの客観的
描写といえますので、その視線に沿うように訳せばいいわけです。
「彼は毎日野球をします。」訳文以上でも以下でもない、文字通りの意味を表すといっても
いいでしょう。
対して②は、この文を読み手である「私」が知人の「聞き手」に話している場合ですから、
両者が了解している状況が背景にあります。いわば文脈依存型訳といえるでしょう。
「あの子は毎日野球ばかりしている(勉強はほったらかしなのよ)」とか、「毎日欠かさず野
球をやっている(熱心だな)」といった表現を例としてあげることができるでしょう。
このように、どのような文も客観的描写と見る場合と、文脈依存、つまり文を話している当
事者視線での描写というように、ふた通りの訳し方があり得ます。
前者は単純に規範に沿っての訳とも言えますし、後者は話し手の感情などが入り込んでい
ると想定できる訳になります。
ところで、例文集や問題集の問題文などに向き合う時、ほとんどの場合は規範に沿って、1
番のように文を訳すことで済みます。そしてたとえば過去形にしなさいという問題であれ
ば、動詞のplaysの箇所をplayedと書き換えて完成となります。
しかし、解答できない生徒の場合、そのできなさにはいろいろな段階があると考えられます。
単語が読めない。→ 読めるようにするしかない
単語の意味がわからない。→ 順番に覚えるしかない
三単現のsのことを知らない。→ 一般動詞と人称代名詞について学び直しが必要
品詞がわからない。→ 動詞が述語動詞として働き、その前の名詞は主語になるというよう
な語順訳の訓練が足りない。
過去形の意味がわからない。→ 時制についての学び直し
過去形の形式がわからない。→ 過去形の作り方の学び直し
文の構成、語順がつかめていない。→ 語順訳と音読の経験が不足している
これらの訓練や総復習は大変に違いありません。並行して新しい分野の知識を理解しない
といけないということにでもなれば、かなりの負担となるでしょう。できないことの原因が
どこにあるかで、対応もいろいろとなるでしょう。
こんなとき、もし2番のように、自分が話し手となり、He plays baseball every day.という
文で聞き手に何を伝えたいのかを確認するとします。自分が母親の立場なら、すこしは勉強
してほしいのにという気持ちが現れるでしょうし、自分を少年野球クラブの新入りと仮定
すれば、目標とすべき先輩の練習熱心さにびっくりしている気持ちが出てくるとみなすこ
とができます。できない生徒でも、このような想定はできるでしょう。そして単語の意味も
教え、動詞の過去形を導き出せないとしたら、正解も教えて、文章をとにかくくりかえし音
読することを第一課題とすれば、それはそれで一定の効果を期待することはできるでしょ
う。
He plays baseball every day.
He played baseball every day.
と二つの文の音読を繰り返します。単語の理解や文法解釈は後回しです。とにかく意味を与
え、場面を思い浮かべて音読の繰り返しをさせることが大事になります。単語を覚えるとい
った訓練はやるしかありませんが、文法学習は復習したからといってすぐにわかるように
なるものではありません。それなら、それはそれとして、とにかくできることといえば音読
になります。また音読の積み重ねは、知識を超えて何事かを直接理解させるのに役立つはず
です。そのためにも色々に変化した動詞の形を二つ、三つとセットにして音読するのが良い
と思われます。違いを直接体験することで知識化する方法とも言えるでしょう。
1番のような訳の場合でも、音読はもちろん必要ですが、せっかくなら2番での対応をした
いものです。話し手とならないでただ音読するよりは、話し手となっての音読の方が文の内
側に入るというのでしょうか、自身の体験としての表現になりうる、そんな現実感がうまれ
るにちがいありません。
おそらくできる生徒は1番でのやり方で覚えているかも知れませんが、2番での対応も実力
でできてしまうのではないでしょうか。つまりどのような文も、2番のような現実的場面が
あることを肌で感じ取れているような気がします。しかしできない生徒の場合、一見単純そ
うに見える1番ではなく、2番目の経験が生きてくるでしょう。文脈がないところでの音読
だと、仮に覚えても忘れやすいと言えるでしょう。
どのような文章も、中立的、言ってみれば神の視点に立って、ただ「ある事実を描写する」
ことを主とした場合と、その文を話す話し手に自分がなり、場面を想像し「表現」として捉
える仕方とふた通りあります。
つまり、1番では音読するといってもただ読むということにしかなりませんが、2番では自
然な感情、思いが伴う表現になるでしょう。両者は、体験の質が異なると言えます。体験の
質が異なるということは、その音読の質も異なってくると言えるでしょう。
文法が弱い生徒に対しては、問題の解答の説明に終始するよりは、とにかく感覚的な体験を
多くさせたいものです。ある視点から文を見て話し手になるということは、家族同士なのか、
友達同士の会話なのかといった選択があり、つぎにその情報をどのような気持ちで受け止
めているのか、といった想像をすることになります。中立的な英文に息を吹きかけて文を自
分のものにすることに他なりません。
しかし、できない生徒に文を想像して読ませるのは大変だと想像できます。学習意欲も低い
でしょうが、中立的な文にのみ接しているとますます低下しかねません。
したがって、いつも100%求めるのではなく、いつもそういうことを意識させ続けるとい
うことが大切なことだと言えないでしょうか。論理的世界の理解が得意な生徒もいれば不
得手な生徒もいます。経験から何かを学ぶ生徒もいれば、行動することが得意という生徒も
いるでしょう。
文法の世界は規範の世界です。規範は論理的な体系を持ち、個々の知識(規則)は他の知識
(規則)と関係しあって成り立っています。そうした知的理解に優れている生徒も、そうで
ない生徒も、語順訳を通して文の要素の理解を進め、語順感覚が育つことを目指すことはで
きます。そうした知識や訓練は、生徒の英語に対するモチベーションが強ければ大なり小な
り育つでしょう。弱ければ能力があっても開花しないことがありえます。教育指導というの
は、生徒の色々な条件を考慮し、能力や可能性を見通して総合判断することが必要となりま
す。大変に微妙で繊細な判断を迫られる仕事であると言えるでしょう。学習法と生徒の個性
とを上手に結びつけないといけない重要な行為であるわけです。ある時は量をこなすため
に①番的対応に終始し、またある時は②番のような対応で時間をかけて繰り返し表現させ
てみる。こうした両刀使いができればいいのですが、いかがでしょか。

