「学習者」から「読者」へ

例えば中学教科書の会話の基本例文を覚え、自分のものにしてしまえば英語を使えるようになる、という考えがあります。この考えが通用するのは、ある程度の英語力があり、色々な場面で使うための応用としてなら、意味があるのではないでしょうか。学習初期、まだ英語の全体像のイメージができていない中学生などがそれを実践しても、なかなか使えるというようにならないと思われますが、実際はどうでしょうか。

たとえ自分の引き出しに何百という例文が記憶され、配列されていても、相手と実際に向き合った時には、どのように話が発展するかは不明だからです。そのような時の基礎力としては、やはり英文を自分で作る力がいるでしょう。そのためには結局総合的な英語力を要するはずです。つまりは個人の表現としての英語には、例文を覚えただけでは辿り着けないのではないでしょうか。

この、「覚えれば」=「使える」、という学習法には、言葉を「伝達の道具」と捉える考え方があると言えます。もちろん言葉にはそのような面はありますが、もう一つ、個々の人にとっての「表現」と言える面もあります。ビジネスやニュースといった場面では、だれもが意味を共有しうるということが前提になるでしょう。あまり個性豊かな言い方では、内容に信用が置かれないということが生じかねません。むしろあるパターン化された言い方が求められます。しかし個人の生活の場面や、小説などの創作場面では、むしろ個性が求められます。通り一遍の話し方、書き方では、話す人や登場人物の個性が生まれません。そうすると聞き手や読み手は面白くありません。固有の表現が求められわけです。

学習初期(それが初めての英語であれ、大人の学び直しであれ)では、例文を覚えるのではなく、物語作品のような生きた表現世界を経験する方が良いように思われます。アメリカやカナダに行って、現地での生活を余儀なくされた人は、たとえ英語ができなくても、ありとあらゆる表現に否応なしに出会います。すべてを理解しなくても、なんとなくわかる、を積み重ねて行ける環境であると言えるでしょう。現実に何かをやりとりしなければなりませんから、英語の世界にどっぷりと使っているわけです。

物語の世界もまた、意味がなんとなくわかるようになれば、そこで使われている英語表現は身近な存在になります。いわゆる例文ではなく、文脈を背景に持った、生きた表現を体験していると言えるでしょう。この「文脈を背景に持った」言葉の世界を体験することが、学習初期には絶対に必要ではないでしょうか。中学生の教科書でも場面の背景があるではないかという反論が出そうですが、教科書の場面にはいわゆる作者がいません。場面が設定されているだけです(多くの会話例文集も同じです)。ただ場面があるのと、物語とは決定的に違います。物語には作者がいて、語り手が登場します。その語り手は読者に語りかけてきます。場面に時間が与えられ、物語が動き始めます。語りかける者がいて、その声を聴く時、人は学習者ではなく、読み手になります。読み手になるということは、物語の時間の中に入り込むことを意味します。現実体験ではなく、擬似的な体験にすぎないと思われるかもしれませんが、心が関与する世界であるとは言えるでしょう。

言葉には物事を指示する働きがあります。「本」「教室」などの名詞や「歩く」「読む」などの動詞が典型的で、相手もその意味をすぐに理解します。一方で心が関与し、固有の表現にしたいと願う場面もあります。今では写メで済んでしまうのでしょうが、もし言葉で何かを伝えようとすれば、表現に工夫が加わります。「かわいい犬」「小さくてかわいい犬」「○○のような小さくてかわいい犬」というように。この工夫を加えるというところで心が関与するわけです。あまり凝りすぎると、かえって難しくてわからないということも生じますが・・。いずれにしろ、自分が今まで経験し、手に入れてきた表現を、さらにその先にまで広げたいと願うことになります。平凡な言い方でなくて、もっと自分なりに言いたい、と。

それと同じで、物語の言葉は作者が心を使い、一文、一語といえどもおろそかにせず、一番いい表現で書こうとするでしょうし、読み手はそれを感じとります。心に響くものがあるからこそ、長い間、物語は語り継がれてきたと言えるでしょう。従って、作品の言葉を生徒の学齢に合わせてリライトする場合でも、ただ易しく書けばいいとはなりません。小学4年生の教材であっても、ここはどうしても関係代名詞を使うべきだと判断する箇所が生じます。そもそも物語ですから、過去も未来も現在もあるわけなので、教科書のように現在形から始めるとはなりません。保育園児に保育士の方は現在形だけで話かけるはずがないのと同じです。

英語の全体像にまず触れることが大切であるとするならば、こうなります。つまり、中学の3年間で習う程度の文法内容なら、「易しいもの」から「難しいもの」へという配列を無視して、最初からすべてが入り混じった作品を読むべきである、と。英語学習の初期段階こそ、

密度の濃い作品で学ぶべきだと思います。学習者である前に、英文の読者であることから始めるという方法はいかがでしょうか。