英作文は難しいと言われる。特に小中学生の初級段階では、問題集やテストでも最後に設問される場合が多い。また整序問題や長文読解問題と同様に、正解を求められる。総合力が問われるので、難しいという印象をもつ生徒が多いはず。
だが、しかし、英作問題の正解を問うのではなく、正解に至るまでを学ぶ、というように設定を変えれば、どんな生徒にも挑戦することができるようになるだろう。正解は山の頂上に例えられる。上り口、登山道はいくつもある。初心者コースから上級者コースまで。ここでのクラス分けは能力によって決まるわけではない。英作を初めて行う時までに、どれだけたくさんの音読を積み重ねてきたか。そして語順感覚がどれくらい育ってきているかで分かれる。いずれにしろ設問ではなく、英作文を学習手段にすることで得るものは多いと思われる。登頂できたか否か、正解か不正解ではない。登山していること、それ自体に価値が生まれる。
どのコースをたどるにしろ、課題の日本語文の中に知らない英単語や熟語があれば、どんどんそれらを与えれば良い。指導者の狙いは、生徒が持っている形成途中の語順感覚をイメージすること、どのように曖昧か、どこまで定着しているか、である。それもはっきりとしているわけではなく、クラゲのように不定形であることがほとんどだと言えよう。見えないものを見る、といった方が良いかもしれない。
単語や熟語が与えられたからといって、生徒はすぐに正解へ辿り着けるわけではない。混乱すると、語順どころか、わかっていたはずの主語、動詞といった文の要素までが曖昧になってしまいかねない。激しい嵐の中をゆく船のように右へ左へとゆれて、行先が霧の中で途絶える、つまりは語順が定まらない。そこで基本ルールを再確認し、文法書の該当ページを開いては読む。主語→動詞の骨格に単語が当てはまるところまではできても、さて目的語と前置詞句の順序が定まらずにオロオロし始めると、「動詞の右側は何だった、目的語だよね」などと生徒によってはほとんど解答の近くまで寄り添うことが増える。経験の浅い生徒では、英文の調子、要素の配置感覚は育っていないけれど、それでも構わず先へ進ませる。自転車が乗れるようにするために、大人が後部を押さえて、とにかく前に進む訓練をするのと同じで、繰り返し転げながらも、主語→動詞→目的語といった流れに乗せ、方向感覚を手にいれさせることが第一の課題である。1題2題を解くだけでは変化なぞ見えてはこない。しかし100題200題とこなしてゆくうちに、うまく作れたことに快感を覚え、解答を音読する時もスムーズになる。語順訳用長文教材の音読練習と相まって、語順の配置感覚は確実に育つ。その感覚が育てば、英作文が楽しくなる。なぜなら、主語、動詞などでブレることもなく、前置詞は大抵後方に位置するといったことが身体的にも、知識的にもわかるようになれば、怖いものはない。三単現のSを見逃して、間違ったとしてもちゃんとそのことを了解できるようになる。人称代名詞の所有格と言われて最初は戸惑ったけれど、言われていることの意味が今ではわかる、というように変わってゆく。
完成までの苦しみと、完成した時の喜びとが釣り合っているからか、一つ一つの課題を完了させる心地よさを覚えるようになるだろう。
生徒が問題の解答に行き着くまでの間には様々なドラマがある。そもそも迷路に入り、当てずっぽうでしか対応できない場合もあれば、なんとなく進むべき方向がわかってはいても、「は」「が」がつく言葉が複数あったりすると、どれが主語かがわからなくなる場合もある。知らない語句の説明を受けた途端に、うまく押さえていたはずの配置感覚も文の要素も崩れてしまい、馴染んでいたはずの道が不意に迷路に変わってしまうこともある。
しかし、この迷路そのものと、そこからの脱出経験の繰り返しこそが、英文の配置感覚を育て、文の要素概念が定着するのに役立つ。英作文という学習は、習ったことがわかったかどうかを試すための問題としての役割より、この感覚体験と概念の養成のための訓練としての役割の方が意味があるように思う。