成長過程にある子どもたちにとって、整理され、体系化したものを学ぶことは、ある意味とても心地よいことに違いないと思われる。生活環境世界は絶えず揺れ動き、雑然として見えるため、何に意味があり、何が自分にとって価値あるものであるかが分かりづらい。その世界を分節化し、意味付ける方法を手に入れることを、いつも探し求めている、そのように見えるからである。しかし、人が何かを了解するという感じを持つためには、心に触れる何かがないといけないだろう。つまり、合理的なものをほんとうに納得するには、さまざまな経験が不可欠となるのではないか。加えて、腑に落ちるとしか言いようのない分かり方、経過を辿る必要があるのではないか。1+1が2になることを了解するためには、日々の生活体験が不可欠であるように、英語と日本語それぞれが特有の語順を持っていることを納得するためには、ふだん使っている日本語への振り返りが必要である。日本語の語順の特徴を曖昧にしか感じられていない段階では、英日の比較は難しいと言えるだろう。だが言葉につまずくという経験をした時、自分の日本語を改めて見つめ直すことになる。それが英語と日本語とを結びつける第一歩になると思われる。
家庭での生活が充足しているのだろうなと思われる生徒を見ていると、講師との受け答えで「あー」とか「うん」とかしか言わない場面を多く見かける。それだけで自分の思いは伝わると感じているらしい。語順訳で間違いを指摘されても、雲を掴むような顔をして、返事がいつも曖昧で要領をえない。そういう生徒にとって語順訳はキツイに違いない。しかしキツイからこそ、自分の日本語と向き合うことで、ゆっくりとではあるが前に進む。語順訳は英語を訳す作業だけれど、その時、日本語に躓く。躓くからこそ、自分の日本語を振り返ることにつながる。日本語についての気づきが生まれないと、英語は訳せない。英語の語順以前、英語についての知識以前、英語学習には日本語というとても重要な要因が横たわっている。自分の日本語への眼差しは、生徒自身を成長させてもいる。英語力がついている生徒は必ずと言っていいほど、言葉使いが明晰になっているのが見て取れる。
英語の指導をしようとすると、生徒の日本語がどういう状況に陥っているかを知る必要がある。英語とともに、日本語をいかに育てるかに注意を払わなければ前に進めない。日本語では述語は文末に来る。それだけなら英語と語順が異なるということをストレートに了解できるはずだが、この文末が曲者である。ふだんの話し言葉では「こんなところに本を置いていましたわ」「とにかく良かったんだなあ」「とてもしっかりした方なのですよ」「地球は丸い!」「僕は鰻重!」という具合に文末は必ずしも動詞とは限らない。形容詞も助詞も助動詞も名詞もくる。ふだん何気なく使っている日本語がいかに英語と異なるかに驚くことになる。英日とも「名詞」があり、「動詞」があり、「形容詞」があるということでは共通項があると言えるけれど、その実態は「違いだらけ」と言っても良い。網に足を取られて前に進めるようでいて進めない。語順訳を始めたばかりの生徒を見ていると、そんな具合に見えてくる。しかし、いつも原則(ルール)に戻り、型に沿って訳し続けるうちに、スムーズになっていく。自分の日本語に躓き、振り返るという作業は、生徒の日本語を育てるだけではなく、もちろん英語力をつけることに貢献している。英語を学ぶということと、日本語を育むこととは文字通り二人三脚と言えるだろうか。