「宮沢賢治の世界」
吉本隆明著 筑摩選書(2012年8月刊)
もう二十年以上も前、会社からそれほど遠くない会場で吉本さんの講演があるというので、出席したことがあった。そのときの内容が今回講演集としてまとめられた中に入っていた。
「宮沢賢治を語る」と題されている。学生時代に一度彼の講演を聞く機会を逸して以来、一度は聞いてみたいと思っていたので、半日休んで行ったことを今でも覚えている。
彼が発行していた「試行」の読者にも一時はなったものの、年間購読料があるとき切れて、その後は書店に見つけたとき買うということをしばらくは繰り返していたが、そのうち書店でも見かけることが無くなり、その後「心的現象論本論」が刊行されるのをずっと待っていたことがある。 私にとっての一冊を選べと言われたら (誰も聞かないでしょうが)「言語にとって美とは何か」だが、「心的―」も繰り返し読んだ。「疎外」概念がこれほど日本語として生き生きと語られた本を他に知らない。「最後の親鸞」「初期歌謡論」など学ばせていただいた著作は数多いのだけれど、「宮沢賢治論」もそのひとつ。今回は今まで未収録の講演集である。
さて、その講演で一番印象に残った言葉が、「倫理の中性点」ということであった。
「宮沢賢治の倫理の中性点、つまりこのことは倫理であるとともに倫理ではない。それは反倫理ではなく何でも無いことで、善悪に関係ないことだとかんがえられる二重に重なった部分があります。」
「黒ぶだう」をとりあげ、その紹介を終えて(賢治の本文はご自分でお読みください)
「いいやつと悪いやつがどういう因果応報の報いを受けるか。悪いやつが報いを受けず、逆にいいやつが受けてしまう。倫理的な作品に当然なるところですが、読む人もうまくはずされてしまうし、倫理自体がここでははずされてしまう。本来、倫理になるものでありながら、倫理自体がはずされて、全く中性になってしまう。このことは、宮沢賢治が抱いた倫理観の原点になっています。これはいろいろにかんがえられておもしろい、宮沢賢治の倫理観、発展して宗教観もそうなのですが、悪いやつは悪い報いを受け、いいやつはいい報いを受けるということを描いているわけでもないし、倫理というのは一番大切なものだというふうに描いているわけでもない。そうではなく、倫理と倫理でないものが二重に重なった場所があって、それはとても大切なことで原点になっているということが、宮沢賢治のとても重要なところのようにおもいます。」と語る。
ここには親鸞における「他力本願」や「非僧非俗」、あるいは「還相」についての、彼の著作にも通じてゆくものを感じる。
学生のときから、「倫理」がそのまま「正義」となり、地滑りのように「権力」になっていくあり方に関心をもっていた私にとって、この「中性点」、いわば倫理以前の倫理、とでもいうべき見方はとても新鮮であった。と同時に、以後多くの事柄の思考の出発点にもなったのである。
今回のような大きな災害・事故自体を取り上げても、恐らく問題は解けない。人それぞれにかかえている日常の、それこそ些細な事柄。生きているかぎり、誰にとっても伴う、ちぐはぐ感や不安や苦痛との接点をこそ探さなければいけないのだと、そう思う。
倫理で解こうとすれば、善悪の二者がこの世にはいることになり、人間存在の課題がただの政策論議にすりかえられてしまう。個人から社会全体に至るまでのすべての問題に整合性を与えた解はまだ誰一人提出したわけではない。そのような状況で自分だけは善の側に立っていると喧伝することは、やめて欲しいものである。
ふだん私たちは隣人や知人と自然な会話を交わしていることに、無意識にしろ価値をおいているはずである。事柄の大小ではなく、それぞれのつながりのなかで、問い続けるしかないのではないだろうか。