語順訳から翻訳へ
『語順訳』
私たちの行っている英語学習法のひとつ、「語順訳」では、英文を語順通りに単語を一つひとつ訳し、日本語の文へと断片を積み重ねてゆく。たとえば
You have a book.
あなたは
あなたは持っています
あなたは一冊の (を)持っています
A)あなたは一冊の本を持っています。
英文では四つの単語が、語り手の表現意識(ある言いたいことのかたまり)にそって,主語→動詞→目的語を選択してゆく。品詞で言えば、人称代名詞→動詞→冠詞→名詞である。英語の場合この語順の多くは決まった構成のもとに創造されてゆく。いわゆる文型である。この順序、つまり時間経過とともにひとつの構成を生み出してゆく英文の流れを、学習者は文字通り身を以て体験し、視覚的にもまた音としても追跡しながら訳してゆくことになる。一般的な英語学習の場合は、すでにそこに文ができあがったものとして存在することから始め、意味の把握や構文を掴みながら訳すのに対して、私たちは言葉が生み出されてゆく過程に注目しているといえよう。
『日本語』
日本語では、この訳文の内容であれば、たとえば
B)一冊の本をあなたはもっています。
あるいは
C)あなたは持っています、一冊の本を。
D)(あなたは)本をもっています。
というように同じ意味でも、いく通りかの言い方や語順があり、文として成り立つ。英語の語順にそった訳文としての日本語は、その多くは一通りにしか決まらない。この日本語における自由感を背景にして、英文における文の形式という拘束感を、無意識にしろ味わうことになる。
また、日本語では
あなた→は→一→冊→の→本→を→持っ→て→い→ます
というように助詞、助動詞の参加があり、それだけ表現意識は数多くの選択あるいは屈折をすることになる。(言い間違いや失語状態での表現では、たくさんの箇所で躓く可能性が生まれることになる)英語では四つの単語で構成されているものが、日本語では実に11個の語が関与しないと表現できない。英語では語の順序、構成に意識が強く働き、日本語では語の選択と、個々の掛かり方に意識が向けられるといえる。屈折語、膠着語という形式とともに、表現意識のベクトルが異なると言った方がよいかもしれない。AとBでは、完了した文としてみれば、意味は同じと見なされるかもしれないが、語り手あるいは書き手の表現時の意識を中心に見れば、主語を最初に持ってくるか、目的語を最初の語として選択するかは、明らかに異なるといわざるをえない。
主語を最初に持ってくることを、意識のどこかで拒否または迂回したい気持ちが働いているからである。こういうことは何かを書こうとすれば、だれでもすぐに体験することになる。大学の入試問題の、ちょっと受験生を困らせてやろうといった趣で出題される特殊な文章以外、たいていの文では、いわゆる英語の文構成、統語関係のはっきりしたものが多いのと、対照的である。小学生の子どもでさえ、日記を書くときに、「遠足に行きました。ゾウがいました」「遠足で僕はゾウを見ることができました」という選択で悩むことはあるように。
比喩や関係詞、分詞構文などによって複雑な文になればなるほど、語順訳による英語学習者はこの日本語と異なる英語の構成、その美であったり、強度を何度も何度も体験することになる。日本語の場合は次の語に掛かる流れや、主語の不使用、あるいは助詞、助動詞の選択などによっても美が強化されたりする。
『異文化理解』
この方法はやがては、同時通訳として意味を汲み取るときの方法へと限りなく近づいてゆく。もちろん、現実の通訳はそんなに生易しいものではなく、その文化的背景や表現者の個性などさまざまな要素を考慮して翻訳することになるだろう。
しかし、日本語話者が英語を学習する時に、いわゆる異文化を理解してからとはならないのであるから、むしろ精確な意味の把握以前に、こうした構文上の差異を(知識としての了解とは別に)体験することは何よりも、異文化理解の第一歩ではある。私たちは同じ日本語話者同士であっても、言葉の表現からその語群の和としての意味を掴む以上に、その文体や音声のつらなりに、より多くイメージや、言いたいことを感じ取るのではないだろうか。相手の言葉の一つひとつは忘れても、表現内容は記憶に残るというのは、言葉の総体に触れているからこそであると思われる。
外国語を訳することは、単にその意味を把握するだけに終わらず、母語への反省、或いは言葉による<表現>全般に対しての格闘を伴い、結果として<外国>を理解することの本当の難しさの前にたじろぐことになる。しかし同時にそれは、今回の震災の時のように、世界中からのメッセージを受け止めるときに、字義以上のものをそこに感じる受け止め方をも育てることにならないだろうか。言葉は規範の側面をもつと共に、常に誰かによって<表現>されるものであるから。
次回は、
主語と述語動詞の結びつきの強さと弱さ。語の順序の機制の有無が作り出す英語と日本語の差異を、川端康成の「雪国」の第1行目に関して考えてみたい。多くの識者がこれを取り上げ、言葉だけではなく、ヨーロッパと日本の精神的差異に言及している。あるいは「日本的」存在様式としての「主客未分」をキーワードに説明がなされている。
私はできるだけ語順訳の原則から、つまり表現されてゆく過程を追いかけることで、何事かを言ってみたい気がしている。なぜなら、「主客未分」をいうには、私が余りに見識が少ないのは自明だし、英文、日本語原文それぞれから読者が異なるイメージをもつのは、必ずしも主語の有無と対応するとは限らないと考えるからである。