桜の実の熟する時

桜の実の熟する時

藤村に同名の小説がある。その本を手に取ったとき私は中学生であったが、親や姉たちが読んでからしばらく時間が経っていたのだろう、それはもう、紙が少し黄ばみ始めていた。

最初のページ、主人公が坂を上るシーンから始まっていたと記憶するが、その出だしを読み始めたとき、自分も大人の世界への坂道を上り始めたような気になり、変に緊張したのを覚えている(ストーリーはすっかり忘れてしまった)。

さて、その桜の木の実である。写真は事務所近くの桜の木にびっしりと成っていたもの。いまでこそ、サクランボ(桜桃)は有名になり、高価にもなって、人々の認知は一気に上がっているが、以前は桜の実とサクランボを一緒だと思っていた人がけっこう多かった。

しかし花々の多くが咲き誇る5月が過ぎ、この6月の梅雨時に入ると、曇り空のうっとおしさを忘れさせるサクランボの色は、たしかに宝石のようである。そしてこの桜の実もやはり愛らしい。写真は昼過ぎ、まだ雨上がり直後で少し曇っているとき。この後「五月晴れ」になった。

旧暦のときの言葉だから、五月であるが、梅雨の合間の夏の光である。今は新暦の五月、ゴールデンウイーク頃に良く晴れると、こう表現することがある。本来は田植えが終わり、苗が育ち始めるときのめぐみの雨の合間の絶妙の晴れのことを指したのではないか。農耕行事、神事から生まれた言葉のような気がするが、どうであろうか。

たくさんの言葉が時代とともに使われ方を変えて生き残る。意味が変化してゆく。ある事柄に「言葉を与えた」あとは言葉が独り歩きするのである。元の意味をおそらく徐々に縮減しながら、空いたところにいろいろなイメージが身を寄せ合うようにして隠れているかのようだ。「サクランボ」も今や高級果物の代名詞といえるだろう。そのうち庶民にとってはアメリカンチェリーだけがそう呼ばれ、本来のものの存在は忘れられるかもしれない。

『桜の実の熟する時』である。いま思えば、大人への坂道を感じたのはそのシーンであるよりは、「実の熟する」という言葉に触発されたのかもしれない。桜の実の赤はとても美しい。円熟期という言葉があるが、それは何色だろう。たとえそれが何色であろうと、その中に一閃の赤を含んでいるにちがいない。少年が一瞬頬を染める赤である、そう思いたい。

熟するとは、同時に次の世代の胚を内にもっているということである。
であれば、熟年もまた、新たな命を内に秘めている者のことだと、いえなくも無い。