大阪駅が新しくなったというので、出張ついでに見学した。
十幾つあるプラットフォームの上の大屋根の下、南北のデパートやショッピングモールとの間に架けられた、いわば跨線橋の巨大版である。オーケストラの演奏会場にも充分になれるほどの広さがある。
そこは土の匂いこそしないが、カフェが一つあるだけの、文字通り広場であり、公園であった。
おそらく、ここ大阪駅からそれぞれの「目的地」に向けて出発し、また立ち寄り、或いは遠くから帰ってくるさまざまな「旅人」や勤労者の行き交う様と、ひとときの安らぎを覚える空間、そんなイメージで作られたに違いない。何よりも駅特有のKIOSKと土産物屋が無い。
ただ自然にプラットフォームに眼を向けたくなるガラス張りの仕切りがあるだけである。さっき自分が降りた駅の賑わいを、遠いできごとのように見下ろせる丘の上のような、そんな広場である。
「時空の広場」と名づけられているけれど、むしろ時刻表とダイヤグラムから解き放たれた空間といえよう。For Kyoto, Naraではなく、For Nowhere。
経済発展のため、震災復興のため、反原発のため、仕事のため、旅行のためではない、谷間の渓流が平らな場所に出て、ひと時ちいさな渦を巻いているような空間。
ずいぶん昔、ノエル・カワードの戯曲 “Still Life”を読んだ。駅構内の喫茶室で出会う男女の物語。ソフィア・ローレンが出た映画が出来る前である。舞台の白黒写真が1・2枚載っていた。
駅が舞台になる物語はたくさんある。駅には物語を生む精が住んでいるに違いない。大阪駅上のこの広場もまた、未生の「時空」に人々がそれぞれの物語を作り出すことになるのだろう。
東京駅に戻ると、列をなすみやげ物の菓子店、弁当屋の店先の賑わいに出くわす。一方で相変わらずロープが張られ動かぬエスカレーターを横目に、プラットフォームへの階段を上る。
この東西の落差を私はどこまでも引っ張ってゆかねばならないと思う。それが意味するものが何であるかを問い続けなければいけないと。二つの駅の風景は違っていても、それぞれのレールの先は共に被災地へと続いている。
For のつく生活と、つかない自由な生き方とが出会う場所。そんなことを夢想させてくれた「時空の広場」であった。
2011.5.20