線路は続くよ、どこまでも (英語がわかるということとは)(2)

線路は続くよ、どこまでも (英語がわかるということとは)(1)
から続くーーーー(1)から読む

先ほどから、英語教室を開いて40年の先生と、その教室を卒業して今は大学1年生のコトハさんが話をしています。どうやら英語がわかる,できるということは、けっきょくなにがわかる、できるようになることなのか。そのような疑問をコトハさんが先生にぶつけているようです。


センセイ:

    次に教科書の会話文の話だけど。

コトハ :

    カナダから来たトムです。ていうやつね。

センセイ:

    そう、教科書ではよく、次は○○の場面です。Aはカナダから来て、Bのいる○○中学校にやってきました。1ヶ月の滞在の最初の紹介場面です。みたいな。

コトハ :

    うんうん。

センセイ:

    そして、クラスの誰彼がAやBの役をやって会話をする。よくある旅行会話集と名のついた本と同様で、場面設定の上で会話の練習をする。

コトハ :

    そうそう。でもやっていても何となく白けて、日本語の土台から離れていない感じがするわ。だって、山田君がTomになっても、やっぱり山田君なんだもの。

センセイ:

    しっくり来ない、生き生きとした感じが伴わないよね。演じるドキドキ感が生まれて来ない。役によってはやらされて嫌だなと感じているかもね。それはね、たぶん、舞台や映画の場面と違うからなんだ。何が違うと思う?

コトハ :

    えーと、ほとんど道具なんて使わないで、普段の教室のまま。

センセイ:

    それも一つだね。場面と言う限り、できればリアルにやりたいものね。リアルな方がその気になりやすいからね。それから?

コトハ :

    動作をつけるなんてあまりしない。つけても、出来るだけ上手にというより、何となくしている動作で、はいOK。なんとなく恥ずかしいし・・・

センセイ:

    うん。いわゆる劇をやるのではなく、あくまで会話練習だからと、先生も生徒も同様な気持ちで行われることが多いのではないかな。つまり・・・つまり、その場面を進行させる本当の意味での「語り手」がいないし、(脚本になっていない)そもそも物語になっていないということだね。舞台や映画での1シーンは、単に役者が上手に演じているというだけではなく、その表情、所作は作品の全体の中で決まって来る。あるいは前後のコンテキストとつながっている。監督は脚本にそって、場面全体に統一感を与 え作品を完成させようとする。ということで、役者の会話の背後には、必ず物語を進行させる役割の人、脚本家=監督=語り手がいる。学校の先生が指導したり、指示したりするのは語り手の立場からではなくて、ただ、仮の場面を作って、会話練習をさせるコーチの役割かな。

コトハ :

    語り手がいないと、何が違ってくるの?

センセイ:

    語り手がいないということでは、教科書や旅行会話集の会話も、文法の例文も同じで、いわゆる生きた英語とは呼べない。ある事柄を述べるには英語でこう言います、というだけだね。あたかも登場人物を演じている、という気持ちを支える物語が背景に無いということを意味している。逆に語り手がいて言葉を使うということは、「あたかも〜のように話し、振る舞う」ということで、日本語話者の意識から、英語話者としての登場人物の意識へと変わろうとすることだね。日本語と英語の間に流れている川にかかる橋を渡る、といってもいい。規範として英語を理解するのは、川のこちら側にいて対岸の英語を見ているようなものだね。

コトハ :

    そうそう。私ね、小学校で劇をした時、舞台の袖にいるときはただただ緊張で、ドキドキしていたのに、いざ舞台に一歩踏み出したときは、わたしすっかり「かぐや姫」になっていたわ。

センセイ:

    ほー、日本最古の竹取物語をやったんだ! 花子から姫に変身!

コトハ :

    学校で習っていると、いつもわかった気になるのに、何もわかっていなかった、ということの原因はそこにあったのね。その文(言葉)が自分のものになったという気がしなかったわ。センセイの所で物語の文章を語順訳したり、音読をしたりするのは、語順や文の要素を確認したりする文法的な学習の一方で、物語そのものを読み、発表するということが表現として言葉に触れる、ということだったのね。おばあちゃんも先生に習っているでしょ?物語をただただ 音読と語順訳をしているだけでも、どんどん英語が溜まっていく気がすると言っていたわ。文法的に説明しろと言われるとわからないけど、文の形が見通せるようになった、って。

センセイ:

    文法がわからなくても、英語がわかるという感覚が身に付いてから文法で復習する方が、本来の学びの形かも知れないね。音読は自分自身があたかも「語り手」や登場人物で言葉、物語を生み出しているかのような 体験だよね。それが英語学習の出発点だと思うよ。教科書に書かれた文を見ているときは、その言葉はまだ他人のものという感じでしょ?でも、ひとたび自分がそれを読むという段階では、それを自分が誰かに語って聞かせる、という気持ちをもたなければいけないよね。正しく読むことはもちろんのこと、相手にある言葉をどんな気持ちで伝えたいかによって音の表情は変わるよね、楽しいことを伝えたいのか、残念なこととして伝えるのかによって、言い方が変わるでしょう?
         He is playing baseball.
    という単純な文でも、それをどう伝えたいかで読み方は変わる。

コトハ :

    英語が自分の中に溜まってゆく感じの奥底には、この「あたかも〜のように」という気持ちで英語に触れ、声に出すことが必要というわけね。

センセイ:

    そのとおり。さあ、文法問題集をやろうか?

コトハ :

    ?■×○=! ところで、どうしてこの記事のタイトルは「線路は続くよ・・・」なの?

センセイ:

    いや、まあ。英語の勉強って、どこまで行っても終着駅が無いからね。

コトハ :

    ほんとそうだわ。やっても意味ないのかしら。益(駅)無し、なんてね。

センセイ:

    =○×■?■×○=!