線路は続くよ、どこまでも (英語がわかるということとは)(1)

先ほどから、英語教室を開いて40年の先生と、その教室を卒業して今は大学1年生のコトハさんが話をしています。どうやら英語がわかる,できるということは、けっきょくなにがわかる、できるようになることなのか。そのような疑問をコトハさんが先生にぶつけているようです。

コトハ :

    英語力って一体何でしょう?会話をやったり、英作したり、問題集を解いたりしても、これが英語です、というまとまった感じがつかめた気がしないのはどうしてかしら?知識はいつも中途半端だし、会話だってまだまだ未熟なことはわかっているけれど・・・

センセイ:

    うーん、そうだね。ちょっとふたりで考えてみようか。すべてが解るということはないのだから、「わかった」という感じがどこからくるかを探ってみよう。ここに一つの文があるとしよう。 なんでもいいのだけど。たとえば・・・ 

    He is playing baseball.

    このように文字で書かれている段階では、意味は変わらない、ということを確認しておこう。でも実際に声にだして読む時、不正確な読み方なら、場合によっては相手には通じないことがある、ということも。つまり書かれたものと、語られたものとには違いがあるということを。ところで、英語の母語話者ならこの文を見た時に、ある種のイメージを思い浮かべるだろう。「彼は野球をしている」という日本語を日本語話者が目にした時も同じだろうね。だれかある人が野球をしている場面をそれぞれに思い浮かべ、それで?それから?というようにこの文の背景や続きは?と思ったりするだろうね。ある文に触れるということは、まずそれが誰かによって書かれたり、話されたりしてこの世に生まれてきたわけだから、まずは表現として見ようとするよね。でも、英語の学習の場面で、テキストにこれが載っていたときは、何を考える?

コトハ :

    そうね、短いからぱっと見て意味を考える。つまり日本語にするわ。それから、現在進行形だなと、文法のことを思い浮かべる。

センセイ:

    うん、そうだね。この文がどのような意味で、どのような構文で成り立っているか、そのように英文を規範から見てしまう。じゃ、文の全体ではなくて、いま仮にHeの後にisまでしか書かれていないとしたら。

コトハ :

    彼は(が)(いる、ある、…です…)で保留のまま、次に何がくるのかな・・・。

センセイ:

    そう、そこにplayingがくると

コトハ :

    be動詞+現在分詞だから進行形だ!ということで、彼は…している。

センセイ:

    そうだね。そう、そこにbaseballがくるから…

コトハ :

    野球をしている。でもピリオドがないからまだ続くかもしれない。たとえばその後にin〜がきたら、「〜で」と場所の説明がくるのとか。そんな風に構えているかな。

センセイ:

    そうだよね、今のように言葉は一つずつ生まれてゆくわけだけど、次に何が来るかがわからない状態は、心理的には宙ぶらりんだよね。待っているところへ次の言葉が現れる。ということは、そのたびに気持ちが満たされてゆくとも言える。心理的な動きが生まれるよね。最初から文の全体を見渡してしまうと、そういう気持ちの変化は生まれない。文が生まれてゆく流れを、そのまま追いかけながら訳すというのは、話している言葉を聞きながら意味をつかもうとすることと同じことになる。それでは次に、この「Heってだれのこと?」と聞きたいのだけど。

コトハ :

    HeはHeでしょ?「彼は」じゃいけないの?

センセイ:

    そうではなくて…。じゃ、「彼ってだれのこと?」

コトハ :

    彼って、だれのこと?

センセイ:

    うん。例文のように提示されたときは、だれでもないheだね。でも、実際に使われた文章として見ようとすれば、この文を使った人が具体的に思い浮かべているある人物ということだよね。この文を作り上げた人、つまり話者であり、「語り手」にとっては知っている人物、ということになる。言葉は本来誰かが話したり、書いたりしないと生まれない。文法を習うときの例文は誰のものでもない文だけど、その文を生きた言葉として、取り上げようとすると聞き手が必要になるね。

コトハ :

    独り言もあるけど・・・

センセイ:

    仮に語り手が花子なら聞き手は僕。僕が語り手なら聞き手は花子。独り言なら自分自身が聞き手。つまり「He」を話題として取り上げているということは、それ以前にたとえば、安倍君はいま何をしているだろう?というように特定の誰かを話題に上げて、その人物について語るからHeになるよね。

コトハ :

    それはそうだわ。カフェでコーヒーを飲み始めて、突然Heと言われてもだれのことかわからないものね。そうすると、ある言葉が有るということは、誰かが誰かに語る、と言う場がないとあり得ない、ということになる。当たり前だけどね。

センセイ:

    そうだね。あるいは小説や物語だと、たとえば次のように始まることはある。 

    He was an old man who fished alone in a skiff in the Gulf Stream and he had gone eighty-four days now without taking a fish.
    - Ernest Hemingway “THE OLD MAN AND THE SEA”

    この場合は、物語が始まるということを、読み手は知っているから、Heが誰か、どういう人物かが徐々にわかるとわかって読み始めるよね。この物語はどのように展開していくのだろうということで、文の内容や広がりを見るということは、表現としてこの言葉を見ていることになるでしょ。もし、この1文だけを教科書に載せて、文法的なことを説明するために利用するときは、関係代名詞が使われている、完了形がある、と解釈しながら読み、言葉を規範として見ていることになる。heがどんな人物か、などとは考えない。だけど、ひとたび声に出して読むときは、ただ練習で読むという人もいるだろうけれど、意味をくみ取り、イメージを伴って気持ちを込めて読むことができれば、この文を表現として受け止めていることになる。また表現として受け止めなければ、どのようなリズムやイントネーションで読めば良いかは、ほんとうは決まらない。このように言葉に向き合う時、僕らはどちらかの視点で見ている。規範を通して文の意味を理解することと、表現として接することの両方を体験した時初めて、その文を受け入れた(了解した、自分のものになった気がする)ことになるのだと思う。