コアのキャンプと私。あの時間に、感謝。

信州で繰り広げたあの愉悦とも言える時間に、感謝。

コアのキャンプと私 水野恭一

風の旅行社 風カルチャークラブ 水野恭一

私(水野)は1973年(昭和48年)の春、三年間ほど勤めた、とある子供の外国語教育団体を辞め、その年の12月14日に信州・北安曇小谷村のスキー場で宿(ロッジ)を始めた。コアライブラリー協会も同じ頃、私の諸先輩方がその教育団体から独立し、組織したと記憶している。

この年(48年)は、ほんとうに酷かった年で、まず第一次オイルショックが秋に発生した。ガソリン、灯油、トイレットペーパー、洗剤などが高騰し買占めなど様々な騒動が起き、宿の建築工事代金も1.5倍にも膨れ上がってしまった。そして48豪雪。この11月下旬の大雪は、一晩で1メートル以上の積雪があり、まだ工事中の建物に多大な影響が出、開業は大幅な遅れとなってしまった。

翌49年の春から、コアのスキーキャンプが始まった。まだバス1台の席も埋まらず、20名前後の参加のような記憶がある。それから約20年間、宿を手放すまでこのスキー場でコアのスキーキャンプが行われ、夏にも何回となくサマーキャンプが開催された。宿の経営にはまるで素人の私であったが、子供たちの野外活動は任せてほしいと売り込み、後輩のずうずうしさも手伝ってか、コアライブラリー協会の諸先輩には随分とご迷惑をかけてしまった。

私のかみさんも同じ教育団体に所属していたが、宿開業後、数年してコアのテューターになった。二人の間の一人娘は宿開業の年に生まれたので、娘の年を数えるのに苦労はない。成長しスキー板を履けるようになってからは毎年、コアのスキーキャンプに参加するようになった。私たち一家は、晩秋から雪解けまでは、ほぼ別居状態。春に娘の成長を見るのが楽しみで、私にとっての大事なスキーキャンプでもあった。

今でも私たちコアのキャンプスタッフが集まる時、キャンプネームで呼び合う。オトサン(最近は年のせいだ、弟月さんと呼んでいる)、おやぶん、アンドレ、トジマリ、どっきり坊主、ソナチネ、ドラエモン、キャンディー、ポンタ、ジャッキー、おいチャン、ラン丸、クーラー、カラハリ、ザッパ、サヤ姉、リゲインなどなど、この奇妙なあだ名は、ほとんど芝田(おやぶん)さんが名付けたのである。ちなみに私のキャンプネームは何故か「ゲシュタポ」だ。

コアのキャンプは、あちこちの生温い団体が実施するものとは違い、「自然を体験しよう」などと言う、やわな言説など吹っ飛ぶくらい過激に企画されてきた。あのハイテンションなコアのキャンプ、いつでも、ありありと思い出すことが出来る。

スキーの指導が終わってからの本気でやる雪合戦、夏には、狂気乱舞して水を掛け合う清流での川遊び、夜にはほんとうに怖いオバケ大会、昔の遊びの呼び方では水雷艦長と言ったと思うが、三すくみのゲーム「トライアングル・スクランブル」、そして静かに始まり、興奮の極致に達するキャンプファイヤーなどなど、大人も子供も本気で怒り、笑い、泣きした時間が懐かしい。

なにも知らずに、ただ好きなだけで信州に移り生計をたてようとした私だが、生れ落ちた処ではない、ということも忘れ20年間、あいまいな「よそ者(異人)」として過ごしてきた。しかし、その年月は私に、膨大な「なにか」を与えてくれた。世間に色気づいた時から、宿を手放すまでが私の青春時代であったとするならば(長い年月ですが)、コアのキャンプもその時空を共有し、ある想いを持続させてくれた大切なできごとであった。

そして、その想いをささえてくれた仲間たちがいた。それぞれに、辛いことなどあったと思うのだが、あの愉悦とも言える時間が今でも安らぎを与えてくれている。振り返ってみると、感謝ということば以外見つからない。

この拙文を借りまして、コアライブラリー協会の皆さまに御礼を申し上げたいと思います。
永い間まことにありがとうございました!

水野 恭一
(株)風の旅行社 風カルチャークラブ 海外・国内 企画担当
ホームページ http://www.kaze-travel.co.jp/
風の旅行社では、風カルチャークラブのほかに、ネパールのトレッキングや世界中の山岳ツアーなどの企画や管理も担当。
1981年イエテイ同人 ネパール・ヒマラヤ アンナプルナ南壁隊に参加。